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786.【逆境】

2012年09月21日
人は、逆境や苦境に立たされると、
その運命を呪ったり、愚痴っぽくなったりする。

「何故???? どうして???」という言葉が、
頭の中を駆け巡り、出口のない思考停止状態に陥る。

一旦、苦難が目の前に横たわったなら、
避けられない状態なら、
もう、それを受け入れる体制を早く整える方が、
解決へ向けての出口をより早く見いだせるかもしれない。

初めの段階は、その状態について
「拒否反応」がある。
しかし、最終的に「受容」という段階に至り、
そこに至って、精神が安定を取り戻す。

受容されるまでは、精神的に苦しい時期を過ごすことになる。

もし、
より早く「受容」という段階に至ることができれば、
苦しみを少しでも軽くすることができると思う。

そのために、普段から死生観をしっかり持つこと、
自分の哲学や宗教をより堅固なものにしておくことが必要だと思う。

人は、逆境からも学ぶことができる。
「何故?どうして?」という疑問を持つよりも、

「このことから、何が学べるのか」
「今後、どういう行動をし、どういう態度をとるのか」
そのような思考体制を持てればいい。

例えば、死を宣告されたとしたら、
「このことから、何が学べるか?」という問いに
「今さら学んでもどうせ死ぬのだ」と諦めの境地に陥るかもしれない。

だからこそ、死生観を持つ必要がある。
例えば宗教では、死んだ後まで続くような人生観を持つことができる。

私は、クリスチャンだが、自分の弱さを知っている。
だからその弱さを主に(ゆだ)ねることで、
神の力により、強くなることができる。

宗教は、慰めであり、湧き上がる力でもある。

宗教が無いのなら、
せめて自分の信じる哲学を極めることが必要だと思う。

どんな人でもいつかは逆境や苦難に遭遇する。
その備えは万全だろうか?


参考ブログ紹介;http://labellavitaet.blog40.fc2.com/blog-entry-1323.html




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人生の法則 | コメント(14) | トラックバック(0)
コメント
受容可能な事態は逆境ではない。

死は逆境ではない。

思い描いていることと現実のギャップは逆境ではない。

一過性の苦境は逆境ではない。

逆境は死ぬまで続くもの。

苦境と逆境の混同は勘違いに過ぎない。
宇宙に、永久の命は存在しない。

死は生を受けた時点で、いずれ訪れることが決定付けられている。

言い換えれば、死の宣告を受けずにこの世に生まれることはできない。

死が逆境ならば、死より生こそ逆境である。

生が逆境ならば、逆境を乗り越えた先は死となる。

ならば、死は幸であるはずだから決して逆境ではないと言える。

従って、死を逆境と捉える論理は破綻していると言わざるを得ない。

死は逆境ではなく、必然なのである。

訪れた苦しみに、救いを求めるその心が信仰なのかも?
人は、何のために生まれてきたのか?

少なくとも、死ぬために生まれてきたのではない。

何のために生まれてきたのか?

その答えを持たない者が死を恐れ、死の恐れから逃れようとするのかも知れない。

ただ、生きとし生けるものには例外なく死が訪れる。

死を受け入れようが拒絶しようが抵抗しようが、例外なく人はいずれは死する。

よって、死に対する覚悟など必要はない。

必要なのは、何のために生まれてきたのか?その答えを見つけ、その目的を果たす覚悟である。

生まれてきた目的、それは魂に刻まれている。

魂に刻まれていることは、肉体の一部である脳の思考力ではみることは出来ない。

この世は、魂の修行の場。

修行の場は、救いなど求めず、己の力で乗り切るもの。

そうでなければ、修行を積んだことにならない。
死の訪れを逃れられる命はない。

精一杯に生きられるか?それが命題だ。

命には限りがある。

だから、命ほど大切なものはない。
知能を備えたが故に、人は死を怖れ神に救いを求める。

神は、己の存在を保つために命に知能を与えた。

形あるものいつかは壊れ、命あるものいつかは死す。

それは、この宇宙が誕生するより遥か以前より続く普遍の法則なり。

信仰は生き抜く力とすべし。

死を受け入れる方策とするは、宇宙の法則に反する。
試練と逆境は似て非なるもの。

生きていれば、人は誰でも多かれ少なかれ試練に遭うが、逆境は誰もが経験するものではない。

なぜなら、試練は課すことが出来るが、逆境を課すことは出来ないから。

試練と逆境、さてその差は何でしょうね。
試練には遇ったことは、当然ありますよね?

逆境に遇ったことはありますか?

逆境に遇ったことがあるなら、試練との違いは解りますよね。

私自身は親から独立して以来、逆境に遇ったことはありません。
また、私は生まれた直後に「この子は?歳まで生きることはないでしょう」と死の宣告を受けたそうです。数年前に発見した私の母子手帳にも、その旨が記載されていました。

子供だった時にかなり鍛えられたので、大人になってからは逆境に陥る前に、逆境となる因子を跳ね返してきました。

だから大人になってからは、訪れた試練や自ら招いた試練を乗り越えることに充実感と達成感を感じて生きています。
Re: タイトルなし
> 試練と逆境、さてその差は何でしょうね。

たくさんのコメントありがとうございます。
いろいろと勉強させていただいております。

さて、
私は、逆境の中での自分の立ち位置を試練と解釈していますが、
どのように違いを見出しているのでしょうか?
No title
> どのように違いを見出しているのでしょうか?

逆境は試練を包含しますが、試練は逆境を包含できないので、
「立ちはだかっている壁の質によって違いを見出している」
というより、明らかに壁の質が違うので見分けがつきます。

質の違いを私がイメージする色でたとえるなら、逆境の壁は
ドス黒い色をしているか、または透明です。

跳ね返すことができる逆境の壁は、現われたらドス黒い色を
していることでしょう。
Re: No title
> 跳ね返すことができる逆境の壁は、現われたらドス黒い色を
> していることでしょう。

それでは、跳ね返せない逆境の壁の色は、透明ということですか?

透明の壁は、壁の存在に気付くかどうかが、大きな分岐点でしょうかね。
跳ね返せないのは、気付いてないから?
目に見えぬ透明な敵だからでしょうか?
>跳ね返せない逆境の壁の色は、透明ということですか?


いいえ。

逆境の壁は、私のイメージではドス黒い色をしているか、または透明です。


>跳ね返せないのは、気付いてないから?
>目に見えぬ透明な敵だからでしょうか?


目に見えないからです。

見えないものには立ち向かえませんからね。
追伸

逆境は「敵」ではありません。

たとえるなら「山」。

壁は乗り越えるか、跳ね返すか、打ち崩せば無くなります。

山は乗り越えるか、避けて通るしかない。

山は跳ね返せないし、打ち崩せばしっぺ返しを食らうことになる。


試練は壁。

山のような壁を人間に作れても、山そのものは人間には作れない。

打ち崩すべき壁なら、その壁は「敵」であろう。

でも「壁」によって人が成長するならば、その「壁」は敵であろうはずはない。

だから、やはり「壁」ではない。

それでも「壁」が敵ならば、それは成長できないことの査証となる。
書き忘れてました。


>透明の壁は、壁の存在に気付くかどうかが、大きな分岐点でしょうかね。


気付かないのなら、それは逆境であるはずがありません。

よって、分岐点になりようがありません。

私がイメージする透明な壁の逆境が、どのようなことを指すのか?それが分からなくても当然でしょう。

なぜなら、経験されてはおられないでし、今となっては経験のしようがないでしょうから。
そろそろ気が付いた頃でしょうか?


>どんな人でもいつかは逆境や苦難に遭遇する。


この世には生まれながらに逆境に遭遇する人もいることに。

何の備えもする時間すら与えられずに生まれてきた人がいることに。


>その備えは万全だろうか?


生まれながらの逆境に遭うことなく、想定内の逆境程度で過ごされることをお祈りします。

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