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778.【論理に溺れる】

2012年06月29日
論理的思考を育成するために、
海外では、ディベートという討論会が行われるという。

その方法は、あるテーマについて
肯定派と否定派に分かれ、
相手の議論を退け、自分の正当性をアピールする。
議論を戦わせた後、審判員が。どちらがより論理的に
勝っていたのかを判定する。

意見を論理的に発言するという方法論として、
それは有効な手法かもしれない。

このディベートを行う時、
自分がどの意見を持っているのかは、考慮されない。
時には、自分の意見とは、正反対側の意見側として論じたりしなければならない。

そいうことを考えてみると、
ある意見は、論理的だから正しいというわけではない。
また、人も、論理的に正しいから信用するわけでもない。

好き嫌いや、気分や、感情は、
論理的思考を駆使しても、それと完全に一致するわけでもない。

どのような意見にも、論理的な反対論があり、
論理的な賛成論もあったりする。

人がどう考え、何を選ぶのかは、
論理的というわけでもなさそうである。

どんなに論理的に説明したところで、
それを受け入れるかどうかは、その人次第である。
もちろん、論じることも大切なことだが、
論じることだけに溺れてもいけない。

論理の外にある深層心理みたいなものも、
個人の意見には影響があるということだ。

それが、何なのかは深層だから
簡単にはわからないけれども。

人には、論理的な思考以外のものがある。

討論を重ねて白熱しても、
どちらも信念が揺るがなかったりする。

「自分が論理的に正しい」と確信している事柄でも、
実は、論理的だから正しいと思っているのではなくて、
そう信じているから、論理的にそれを説明しているだけなのかもしれない。

人が何を信じるのかは、論理的ではなかったりする。

例えば、信仰がそうである。
信者は、神がいることを論理的に説明するだろう。
一方で、無神論者も神がいないことを論理的に説明するだろう。

でも、結局信じるか信じないかは、
論理的だからということで決めているわけでもない。

心の決定権は、論理ではないのかもしれない。





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人生の法則 | コメント(7) | トラックバック(0)
コメント
>人が何を信じるのかは、論理的ではなかったりする。


そう思う。


>信じているから、論理的にそれを説明しているだけ


論理的に正しいから信じているのか?
信じているが論理的ではないことを自覚しているか?
この見極めが出来るのが大人だろう。


人は、論理的欠陥を見いだせないと「論理的にも正しい」と信じがち。
逆に、論理的な欠陥があっても心情として信じていることがあったりする。


信じていることが、論理的に正しいのか?ただ心情的に信じていることなのか?
それを見極める力を得るには、論理に溺れるくらい熟考すると良い。
ただ、論理的欠陥を見いだす思考力がないと、溺れることが出来ないが。
論理に溺れるほどに熟考出来ない人って、異論を唱える相手との議論が煮詰まると、議論の問題点から逸れて人格批判を始める傾向にありますよね。

分かりやすいところでは、説き伏せられない子供に対して「生意気だっ!」と言うとか。

まあ、そうすることで己を精神的崩壊から身を守るのでしょうから、仕方ないことと思いますが、そんな風にはなりたくないなあ、とつくづく思います。
Re: タイトルなし
このコメントは、感想というコメントとしては有効ですが、
「論理に溺れる」という論点からは逸れているように感じます。

論理を尽くすことは、否定していません。
ただ、論じ合っている中で、次第に論に溺れる可能性があることを指摘したまでです。
>「論理に溺れる」という論点からは逸れているように感じます。


そうですか?

例えば、水泳。
泳ぐために水に入ったのに、何らかの原因により力尽きて溺れます。

水泳に限らず、溺れるとは本来やるべきことや遣りたかったことなどが出来なくなった状態を指します。


同様に、議題を論じ続けているなら、それは論に溺れた訳ではありません。
(水泳でいうなら、まだ泳いでいる状態)

論に溺れた状態とは、議論の問題点から逸れて(論ずるのをやめて)人格批判などを始めることだと思います。
(水泳でいうなら、泳げなくなった状態)

つまり、論じ合っているつもりが、いつの間にか論に溺れる例として書いたまでです。
Re: タイトルなし
> 論に溺れた状態とは、議論の問題点から逸れて(論ずるのをやめて)人格批判などを始めることだと思います。

なるほど、納得です。
確かに、論から逸れて人格批判などし始めたら、もう論ではないですね。

ただ、私が言いたかったことと、若干ニュアンスが違うのは、
議論は論じているのだけれど、議論の為の議論になってしまった状態を、
溺れるという意味で捉えているということです。

議論から逸れたわけじゃないけれど、まるでディベート訓練でもしているような状況です。
>議論は論じているのだけれど、議論の為の議論になってしまった状態を、
>溺れるという意味で捉えている


元々の議論の対象であった問題から逸れて、問題を議論するための問題を議論するのが、議論の為の議論ですから、「議論の為の議論」は議論に溺れている状態ですね。
例えの違いであって捉え方の違いではなさそうですね。


では、なぜ議論に溺れるのか?

それは、論理思考からはなれて感情思考に移行してしまうから。

そうは言っても人には感情があるので、感情から生まれた言葉を発することは自然なこと。

世の中は広いもので、論理思考と感情思考を上手く融合させたシックスハット手法と呼ばれた議論手法があります。

ひとりディベートで論理思考を鍛え、ひとりシックスハットでより良い選択をする。これが、私の思考力鍛錬法とポリシー確立法です。
Re: タイトルなし
> 世の中は広いもので、論理思考と感情思考を上手く融合させたシックスハット手法と呼ばれた議論手法があります。

初めて聞きました。参考にさせていただきます。
ありがとうございます。

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