07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月

スポンサーサイト

--年--月--日
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告

149.【鏡の法則】

2008年11月05日
またまた、146話に続き、夢子と愛子に登場してもらいました~。


;「先輩!この間はありがとうございました。」

;「どう?何かが変わった?」

;「あれから、ずっと考えていたんです。
夫婦とは補い合うものであるってことを。」

;「そうね、それで?」

;「補うことには2つあって、
相手が自分の足りないところを補うということ。
そしてもう1つは、必ずしも自分の思ったとおりに
補ってくれない相手を、許すことで、
自分の心の隙間を補うってことでしたよね。」

;「あら、賢いのね夢子ちゃんは、よく覚えてるじゃない。」

;「だって、倖せな夫婦になるのが、私の夢ですから」

;「そうね、なんの準備もしないで、ただ、
好きだから結婚しましたってことになると、
きっと苦労すると思うわ。
結婚する前に、心構えを学ぶ必要があるかもね。」

;「それでね、先輩!
相手を許すってことですけど、
でもやっぱりがっかりすると思うんです。
自分が困っているときに助けてくれないと。」

;「そうね。がっかりするわよ」

;「そんなとき、どうすればいいんですか?
どうすれば相手を許せるんですか?」

;「夢子ちゃん、例えば車椅子に乗ってる人ってどんな人か、想像してみて!」

;「歩けない人か、足に怪我をしてる人じゃないですか?」

;「そうよね。じゃその人が車椅子に座ったまま、
駅の階段の前で立ち往生しているとき、
その人に歩いて階段を登っていくことを期待する?」

;「しませんよ。そんな酷なこと。」

;「何故?」

;「だって、歩けないから車椅子に乗ってるんでしょ?」

;「そうよ。誰もそれを咎めたりしないわよね。
だってできないんですもの。
それが許すってことのヒントよ。」

;「どういうことですか?」

;「人は、障害が目に見える場合は、
その人のできないことを快く許すのに、
できると思える場合は、
許すことがとたんに難しくなるものなのよ。」

;「確かに、そうかもしれませんね。
でも、明らかにそれができる場合は、
障害とは違いますよね。
『これくらいのことは、してくれたっていいじゃない!プンプン』
ってどうしても怒ってしまいますよね。」

;「そうよね。それを乗り越えないと、本当に許すってことが、難しいと思うわ。」

;「どうするんですか?」

;「人には、できることと、できないことがあるってことは、理解できるわよね。」

;「はい!」

;「また、人には、得意とすることと、苦手とすることもあるわよね。」

;「はい、確かに」

;「例えば、野球選手にサッカーも上手であることを、人は求めないわよね。その逆も。」

;「そうですね。プロのサッカー選手が、野球が下手くそでも、
アスリートとして恥ずかしいことではないですよね。」

;「そう、人には苦手というものがあるわ。
苦手なことは、あえて人に求めなくてもいいことなのよね。
でも、苦手は、できないというわけじゃないの。
だから、自分のパートナーの場合には、
苦手なこともできると判断して、相手に求めてしまうのよね。」

;「愛し合っているなら、余計に求めるんじゃないですか?
相手に努力して欲しいと思いますよきっと。」

;「夢ちゃん、苦手なことを強要されることってどんな気持ちだと思う?」

;「辛いかもしれないですね。
でも愛する人のためならそれもいいんじゃないですか?」

;「もちろん、いいわよ。そうしてくれたら、いっぱいいっぱい感謝してあげるの。
でもね、結婚生活って長い付き合いなのよ。
毎回毎回、そうしてくれるとは限らないわ。
ご主人に完璧を求めるなら、自分も完璧な主婦を求められるわね。」

;「・・・」

;「いい、夢子ちゃん、
人にとって、苦手というのは、すべてがやればできるものとは限らないのよ。
得手、不得手は誰にでもあるし、できないことがあってもいいの。
そういう意味で、人はみな何かの障害を持っているのと同じなのよ。
障害なんだから、しょうがないじゃない。って許してあげるの。」

;「でも、どうしても、やればできるのに・・・って思ってしまいますよね。」

;「そういう時は、鏡の法則を使うのね。」

;「鏡の法則?」

;「そっ、立場を入れ替えるの、でも、
『わたしだったらこうするわ』という考えは捨てるのよ。」

;「どうするんですか?」

;「自分が、どうしてもできないときに、
できることを求められる気持ちってどうかな?って想像するの。」

;「辛いですね。」

;「そうよね。でもそれを快く許してくれるご主人だったら、どう思う?」

;「私の足りない部分を許してくれるならありがたいし、嬉しいわ!」

;「なら、ご主人にも、そうしてあげることね。」

;「先輩、許すって複雑な精神構造なんですね。」

;「そうね。許すって、自分の心の中の戦いね。期待が大きい分、がっかり度も大きくて許すことが難しくなるわね。」

;「相手にあまり期待しないほうがいいんですか?」

;「期待とは、何かをしてもらう前に、心に思うことでしょ。
私は、期待するより、相手がやってくれたことに対して感謝をするようにしているわ。
その方が夫婦関係はうまくいくみたい。
期待が大きければ、がっかりするだけよ。
逆に期待してない時は、その分、感謝が生まれやすいの。」

;「へえ、そういうものなんですか、また勉強になりました。
先輩、ありがとうございます。また教えてくださいね。」

;「夢子ちゃんの倖せな結婚を祈ってるわ。がんばってね。」




記事を最初から読みたい方は、左側にある月間アーカイブを開いて見てね!


下記をクリックすると、恋愛・夫婦関連の人気ブログ一覧がでます。
にほんブログ村 恋愛ブログ 恋愛アドバイスへ にほんブログ村 家族ブログ 夫婦へ にほんブログ村 恋愛ブログ 男の本音・男心へ

下記ランキングを1日1回クリックしていただければ、励みになりまーす。どぞヨロシクm(_ _)m
 ブログ王 人気ブログランキング

〔紹介コーナー〕

□ 離婚寸前から新婚当時のラブラブ夫婦へ大逆転する方法

□ ここをクリックすると愛の深まる本の一覧がでます。

スポンサーサイト
夫婦の法則 | コメント(9) | トラックバック(0)
コメント
こちらの記事では”障害者”という言葉を用いられておりますね。

山川さんは、よく思い図って、深い熟慮の後で、発する言葉に重きを
おいていらしゃるのですよね。そこで・・・
”障害者”という言葉が「よく思い図って、深い熟慮の後で」発せられた
言葉であることのご説明をお願い出来ませんでしょうか?

ご説明の対象は私ではなく、以下のような方々を想定して下さい。

●自身の障害に苦しみ、悲しみ、時には怒りを日々覚えながらも
 懸命に生きている”真の障害者”の方々

●自身が障害者であることすら認識することが出来ない障害者の方々を、
 苦しみ、悲しみ、時には怒りを日々覚えながらも懸命に支えていらしゃる
 ”健常者”の方々

文脈のご説明を求めている訳ではない点にご留意願います。

最後に・・・

私はこちらの記事に強い怒りを覚えておりますが、【言葉の過ち】にて
コメントしましたように、私の感情は理性という殻で被われており
ますので、怒りを隠しお願いとさせて頂きました。

P.S:やはり、私には「理性が感情で被われている」とは到底思えません。
「あるがまま」さん、私の表現で気分を害されたのかもしれませんね。ごめんなさいね。
では、あえて「障害者」という表現を使った経緯を説明させてくださいね。

私は、常々より、(本当の)「障害者」を尊敬しています。実は、私は大学の頃、バイトで、障害者施設で働いていました。
初めは、同情の目で彼らを見ている自分がいやでした。
それに、身体が自然に拒否していることも分かったのです。なぜなら、当初は、一緒に食事するとき、なかなか食欲がわかない自分がいたのです。口や手やテーブルからこぼれでる食事を見ながら、食事をすることがこんなにも難しいとは、ショックでした、そういう自分に気づくことが。

でも、彼らと友達になり、親友になっていくにしたがって、本当に、心から尊敬することができるようになっていったんです。

「障害者」とは、数々の試練を乗り越えて、笑顔にたどり着いた人か、もしくは、まさに今戦っている人たちなんです。
もう、それだけで尊敬にあたる人たちなんです。

そして今、私のブログリンクにあるもうひとつの私のブログ「介護とケアマネの狭間で」という中で紹介しているように、私は今、母親を介護している生活をしています。
もう4年くらいになります。
今は、入院していますので、昼は仕事して、仕事を終わって毎日、病院に行き、夕食の介助をして、9時頃までトイレの世話やマッサージなどをして、家に帰るという生活です。
そして、母親を介護する中で、介護される側、介護する側の心の痛みについて、日々考えているところです。
介護疲れで、無理心中する人の心さえ分かるようになりました。
それでも、人はがんばって生きて行かなければならないのです。
障害者は、私にそのことを教えてくれた人たちでした。
そんな心の弱い健常者も、彼ら障害者に学ぶ必要があると常々思っています。
だから、あえて言うならば、健常であるなしに関わらず、人間って何がしかの障害者なんです。
だれであっても、障害を乗り越えていく、そこに生き方を見つけなければいけない存在だと思うんです。

ひとつ、これだけは、誤解しないでくださいね。私は、心から、障害を抱えている人、それを支えている人を尊敬しています。
また、自分の仕事も、彼らを支える仕事でもあるのです。

いつか、なんらかの形で、障害についてまた、ブログで書こうかと思っています。

あるがままさんも、心が優しい人なので、嬉しく思います。では。

PS.見解が違うことは、なんら感情を害するものではありません。人はみな自分の哲学に従って生きていくものだからです。
<補足>
世の中には、差別用語というものがあります。
それらは、放送禁止用語にも指定されています。
「めくら」とか「盲人」というのは差別用語で、
正しくは「視覚障害者」と表現します。
「つんぼ」も差別用語で、「聴覚障害者」と表現します。

つまり、「障害者」という表現は、差別用語ではなく、
単純に、障害を持っている人を表現するときに使います。

しかし、私が「障害者」と表現するときは、別の意味合いがあります。
それは、前述のように、「障害者」とは、なんらかの障害を
乗り越えてきた人、または現に障害と闘っている人、
そして、健常者には分からない悟りのある人、
=尊敬に値する人々という意味です。

私は、人は次の二つに分類できると思います。
1.目に見える身体の障害を抱えた人
2.目に見えないの障害を抱えた人
あるいは、両方を持っている人です。

すべての人は、なんらかの障害者なのです。
短気な人は障害者です。のんきな人も障害者です。
淋しがりやは障害者です。うらやましがりも障害者です。
心になんらかの悩みやトラブルを抱えている人はみな障害者なのです。
人間が生きるということは、目の前にある壁だけじゃなく、
自分の中にある障害を乗り越えなければならないのです。

だから、身体の障害を抱えている人を見るとき、
いつも、自分に置き換えて考えるのです。
「私がその障害をもったら、どのような気持ちだろう?」って、
それで、その障害者の笑顔を見るとき、
その笑顔の歴史を想像して、尊敬してしまうのです。
障害者は、それだけで偉い!そう思ってしまいます。
「障害者」とは”拭い去ることの出来ない障害”と死ぬまで絶え間なく
闘い続け、決して健常者にはなれない人たちです。

> 数々の試練を乗り越えて、笑顔にたどり着いた人か、
> もしくは、まさに今戦っている人たち

”拭い去ることの出来ない障害”とは、そのように甘いものではありません。

障害者の中には、目に見えない身体的障害を抱え、心の障害を持つ
力すら持っていない方々がいらっしゃいます。

> 私は、人は次の二つに分類できると思います。
> 1.目に見える身体の障害を抱えた人
> 2.目に見えない心の障害を抱えた人
> あるいは、両方を持っている人です。

全人類をご覧になってこられた上で、辿り着いた結論ですか?

山川さんは、本当に「凝り固まった考えの持ち主ではありません」と
胸を張れる方ですか?

自信を持つことは重要だと思いますが、山川さんは自惚れていませんか?
コメントありがとうございます。
人は大なり小なり、自分の哲学に従って生きているものだと思います。
それは、その個人の哲学も、いつも揺れ動いていて、いろいろな考えを吸収、合併したり、差し引いたり、そのようにして自分の「人生観」というものをもって行くと思うからです。

「うぬぼれ」という自覚はありませんが、自分の人生観は持っているつもりですよ。それがうぬぼれに見えるのかもしれませんし、本当にうぬぼれなのかもしれませんね。

それと、障害者の友人と付き合ってみて思うのは、彼らは特別扱いして欲しいわけじゃなく、普通の人のように接して欲しいと思っているんだと感じたんですよ。

「ああ、障害と闘っている、普通の人間なんだ」と思うようになりました。

それから、全人類を見なくても、個人の考えは持てるものです。
何も考えないより、人間てどういう生き物だろう?って考えることが、哲学だと思います。

哲学をするときに大切なのは、人の考え方を変えようとするんじゃなく、そういう考え方もあるのか、とお互いを認め合うことだと思います。違いではなく、共通点を見詰め合うのです。

障害者と付き合うときは、違いに着目するより、共通点を見出すことが大切だと思うんです。
たいていの場合、人間関係はそれでうまくいきます。

私は、お互いの「魂」同士の付き合いがしたいと思っています。魂は、障害者も健常者も関係ないんです。

障害はこの世だけに限定したものです。でも魂は、永遠性があり、そこと付き合うことの方がより真実な付き合いができると感じています。障害者を色眼鏡でみない、偏見で見ないためには、そこに宿っている「魂」を見るようにするのです。
あの世まで続く付き合いが、魂の付き合いだと思います。

それと、人の考え方というのは、その人の個性です。考え方が違うから、いろいろと面白いんですよね。

もともと、人の考えそのものが、凝り固まることは難しいのかもしれません。人の考えも常に変化していくのです。諸行無常ですね。

ただ、どんなに理性的にお話しても、一度害した感情はなかなか収まらないですよ。人は自分が思っているほど、理性的ではないんです。今回、そのことを書いてみようと思います。

ただ、障害者を馬鹿にしているのではないことだけを分かってくださいね。
私には、30年来の障害者の友達もいますので、本当に尊敬しているのです。
議論の前提
「あるがまま」さんと山川さんのお二人とも、「障害者」という言葉を(辞書に載っているのとは違う)それぞれ独自の意味で使っておられますよね。
その点をお互いがはっきりと認識しなければ、どこまで行っても話がかみあわないと思いますよ。
そうですね。
梧桐さんのおっしゃるとおりかもしれません。

議論には、意見を一致させるための議論と、
意見が違うということを認識するための議論があるのかもしれないですね。

言葉の意味が違えば、受ける印象も違うものです。

ただ、今回は有意義なひと時でした。
お陰で、また考えるヒントをもらいました。
みんな、ありがとうございます。
山川さん、こんばんは

”障害者”という言葉についてのコメントは、これをもって最後とします。

以外に思われるかも知れませんが、山川さんのお考えと私の考えに
大きな差はないと思っています。

ただ、山川さんが書かれていらっしゃる文章中に並んでいる一つ一つの
言葉の中に、時折「どうして○○を伝える言葉がこれなの?」と違和感を
感じることがあります。

今回の記事で違和感を感じた言葉が----

得手、不得手は誰にでもあるし、できないことがあってもいいの。
そういう意味で、人はみな何かの障害者なのね。

----でした。

なぜ私が違和感を感じたのか?

それは、私が山川さんの言われる「目に見える身体の障害を抱えた人」
つまりは世間で言うところの”障害者”、辞書に記載されている意味での
”障害者”、奇異の目を向けられることがある”障害者”、どんなに
努力しても出来ないことがある”障害者”だからです。

健常者の方々にとっての”出来る/出来ない”という事柄の中には、
「目に見える身体の障害」によっては端から”出来る/出来ない”の
尺度すら持てない障害があります。先に書いた「心の障害を持つ
力すら持っていない方々」言い換えれば「心の障害を持つ力すら持てない
障害を抱えた障害者」というのと同様です。

障害者にとって端から持っていない事柄は、健常者の”不得手”とも
”できない”とも違います。事柄自体が存在していないのです。

また、私は私自身を”障害者”だとは思っていません。このように思う
のは「数々の試練を乗り越えて、笑顔にたどり着いた」からではありません。
”目に見える身体の障害”が消えた訳ではありませんから、同じ試練に
何度も何度も合っており、この試練はこれから先も続きます。
私は”試練を乗り越えた”のではなくて、”今のところ通用する”試練を
撥ね退ける心の強さを得ているに過ぎません。

最後に・・・・

> 障害者の友人と付き合ってみて思うのは、彼らは特別扱いして欲しい
> わけじゃなく、普通の人のように接して欲しいと思っている

これを経験談ではない形にすると「障害者は特別扱いして欲しいわけ
じゃなく、普通の人のように接して欲しいと思っている」となりますが、
私なら「障害者は特別扱いして欲しいわけじゃなく、一人の人間として
接して欲しいと思っている」と書きます。


長々と書き連ねましたが、以上で終わりにします。
「あるがまま」さん、ありがとうございます。
今回は、色々と気付かされることがありました。
一つは、言葉は、大枠の意味があるにしても、それぞれの個人が多少の違いをもって、その意味付けをしているということです。
それは、表現も同じことが言えるでしょうし、また、表現の拙さ故に、相手に真意が伝わらないということも学びましたよ。
それにしても、言葉に対してこれくらい集中的に考えたのは、初めてかもしれないです。
いい経験でした。
これからもよろしくお願いします。

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。